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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

造船時代その10


造船所時代の日記(10)です

玉野研究所(玉研)では、今年度の成果発表会が2日に渡って、玉野レクレーションセンターの会議室を借り切って行われた。私たちは玉野研究所にあって、玉研ではない、成果があるわけでなく、聞き役だ。
部長指示で、停年退職する前任者に替わって開発部の取り纏めを、私が行うことになった。事務取扱と言うところだ。体の良い小間使いといっても良い。土曜日、前職場の設計部長杯ゴルフ大会に招待され、のこのこ出かけた。やる気がない上に、実力がないわけで、全くスコアにならない。アウト・インとも途中の茶店で生ビールを飲む。之で良いスコアが出れば、どうかしている。
帰り、ドライブイン、ビクトリアで一人寂しく食事をして帰り、ふて寝の如くいらいらした週末を過ごした。

テーマのない私は、新幹線雪害対策の名の下にJR東京本社に出張、JRの課長の話を聞く。
私と大学同期が教授になって、玉野の実習生を巡回に来た。久し振りで懐かしかったが、社会的地位の格差は如何ともし難く、私は負け犬根性を味わった。
終末金曜日、RX7が納車された。その日に、思い出深い金甲山まで試走した。重量感のある、余裕の走りは、さすがロータリーだと感じた。
その日は更に、大芦原高原から瀬戸を回り帰宅した。リッター当たり10kmも走らない事も確認した。
翌日は、早速出雲に向けて出発した。6時前に出て、津山を回り、中国勝山から、美甘村、新庄村を抜け、江府から一気に米子に抜けた。後は9号線を西に走り、松江を過ぎて宍道湖を右に見ながらのドライブは爽快だった。
昼前に一畑薬師に着きお参りをした後、日御碕に出た。日御碕の灯台に靴を脱いで、喘ぎながらのぼり、風のきつい日本海の荒海を眺めた。
こんな時YYが一緒だったらなぁ、と今はもう人妻となった人に思いをはせた。
聞いた話では
『一畑薬師は海から上がった仏さまといわれ、今からおよそ1100年前の寛平6年(894)、一畑寺の麓、日本海岸の坂村に与市(よいち)という漁師がいて、盲目の母親と二人暮らしであった与市は、ある日、となりの無人の赤浦海岸で漁をしていると、漁をしている与市の釣り舟の上空を、ミサゴ(鷺の一種)が輪を描いては沖へ、輪を描いては沖へと、まるで与市を呼んでいるかのように飛んで行った。しかもその尾が金色の光を放っているではないか。不思議に思って舟を進めると海中に光るものが見えるので、恐る恐る引き上げてみると、それは大きな仏さまだった。
何気ないことから仏像を海中より引き上げ、持ち帰った与市の家には、それからというもの、夜中に大きな家鳴りがあったり、突然稲光がしたりと不思議なことが起こるようになったそうな。この後、与市の家には不思議なことが相次いで起こり、夢に薬師如来のお告げを受けた。
ある日、旅の僧が一夜の宿をたのんだので、泊めしてどうしたことかとその理由を尋ねると、僧はじっと仏さまを拝んでいたが、やがて、これは薬師如来という仏さまに違いなく、昔インドの祇園精舎で、お釈迦さまの聴衆にたくさんの病人が出たとき、精舎の南西の隅に無上院という療病院を作り、そこに薬師如来を安置し、多くの病人の治癒を祈ったということ、そして、このありがたい仏さまを一日も早く聖地を見つけ、お堂を建ててお奉りするようにと告げた。
あくる朝、旅の僧は一丁も行かないうちに、霧に包まれかき消されるように姿を消すのを見た与市は、如来さまが自分にお諭しになったに違いないと、いつまでも手を合わせていたという。』

東洋一を誇るという、明治36年4月1日に初点燈された日御碕灯台に上った。高さ43.65m、海面からの高さ約63mと言われている。
150円の入場料を払えば展望台を登る事も可能であるが、靴を脱がねばならず。内部は絨毯が引き詰めてあった。展望台からの眺めは日本海や稲佐の浜などを一望でき、まさに絶景である。後に、世界の灯台100選にも選ばれた事を知った。ここもシーズンオフでは何かうらさびしい雰囲気だった。

何度か訪れた、出雲大社の御本殿は日本最古の神社建築であり、「出雲国風土記」「日本書紀」には、その建築規模の非常に広大であったことが記されている。
社伝によれば、最古の御本殿は高さ当初「三十二丈(約100メートル)」、とも言われ真偽のほどは分からないけれど、遠方から遥々参拝に来た人々は皆、社殿のスケールの大きさにびっくりしたという。その片鱗は、現存する鳥居に伺うことが出来る。
現在の御本殿は1744年(延享元年:江戸時代)に改築されたもので、高さは約24メートルとのことで、話1/4である。
この御本殿は、「大社造り」という特異な様式で、伊勢神宮の「神明造り」と共に最古の神社建築様式とされ、シンプルな白木造り、直線的な構造が特徴で、国宝に指定されている。
又、御本殿に相応する荘厳な拝殿、神様の御宿となる東西の十九社、巨大な注連縄がひときわ目を引く神楽殿等、悠久の歴史と深い崇敬が刻まれた広大な境内は、参拝する物の、心を清めずにはおかない。
思いつきのツーリングも、一人では何となくつまらない。
帰りはワイナリーに立ち寄り、人気のない玉野の家に寂しく戻った。
寂寞と空虚が一気に私を襲った。天照大神も我を捨てたかとその時思った。

私は事務関係の引き継ぎを行った、前任者は、停年退職をした。なまじ大学を出ていると、認められない限り、同じ会社(部署)で停年を迎えることなど無い。高校卒業でこつこつやっていると、表向き不幸にならずに済むのかも知れない。しかし毎日の、虐げられた環境は、如何ともし難く、私には矢張り絶えられそうにはなかった。

TIt氏が来、前任課長が去る歓送迎会が行われた。仕事は相変わらず、遅々として進まない。

宇高フェリー

なつかしの宇高国道フェリー(何度これで四国詣でをしたことか)


Ima氏と四万十川にツーリングする約束をした。久し振りのVZ750だ。何時も通ったフェリーで高松へ、それから、大歩危、小歩危を経て祖谷川を渡り大豊の山道にさしかかった時、先行するIma氏のバイクに近づこうとしてスロットルを少し回した。其処は少し右にカーブしていて、丁度運悪く砂が地面に散らばっていた。
ほんの少ししかハンドルを切らなかったのに私のVZ750はスリップして横転してしまった。坂の上からは大型トラックが、勢いを付けて降りてくる。一瞬もう駄目かと思って私は目をつむった。全身にショックと激痛が伝わった。次の瞬間、私の倒れた丁度横を大型トラックの車輪が猛スピードで通り過ぎた。
幸い、私は中央線を越えていなかった。しかし痛さには堪えられても自力では起きあがれない。丁度通りかかった、奈良からのバイク青年2人が私を助け起こし、路肩に連れて行き、救急車の手配をしてくれた。Ima氏も、気が付きとって返してきた。やがて救急車が来て私は近くの大杉中央病院で、レントゲン4枚を撮った。幸い骨に異常はなかった。しかし打ち身で、まともに歩けない。高知のバイク屋(ヤマハオートセンター)を呼び、VZ750を預け、迎えの車に同乗して高知まで下った。
高知で、VZ750を直して貰うことにしたが、たちまちツーリングは続行出来ない。Ima氏に一人で行って貰うことにした。
翌日、Ima氏は一人で四万十川に旅発った。それでも、せっかく高知まで来たのだからと、私は、痛む足を引きづりながら、一人で高知城に登った。
高知城は、高知市街の中央にある典型的な平山城。慶長6年(1601)、土佐へ入国した山内一豊が鏡川と江ノ口川に挟まれた大高坂山に築城工事を開始。2年後に本丸・二の丸が、慶長16年に三の丸が完成し、後に高智山と改名、これが高知の地名の始まりとなった由。天守閣は、彼が生まれて4年後の1748年に再建されたもので、全国でも数少ない古城の一つで老木が茂る城郭は高知公園になり、そこからの市街の眺めは素晴らしかった。
土讃線で、トコトコ帰途についた。

土讃線の帰りの車中で、身の上話をしたら、同情したおじさんから、鮎を貰った。貰っても料理してくれる人など無いのに。坂出からマリンライナーに乗り、茶屋町を経由して、玉野に戻った。大杉中央病院への健康診断書のコピーの送付や、助けてくれた、バイク青年、鮎のおじさんにそれぞれ連絡、礼状を書いた。

之で8月連休にTYa君と約束していた、恐山ツーリングはバイクではなく、RX7でのドライブと変わった。
いよいよ本州最北端、下北半島恐山へのドライブが始まった。月曜日会社に出ての夕刻、RX7は姉の家に向かった。岡山ブルーハイウェイを通り姫路バイパスから竜野、須磨、明石と快調に飛ばし、名神を走って、姉の家に到着した時は10時になっていた。
姉もあきれていたが、元々干渉しない家系、深くは何も聞かないし、話もしない。
翌日、6時に起床、7時半過ぎ姉の家を出発した。豊中ICから入り、吹田ICまでは渋滞であった。しびれを切らし、ローカル国道を走ることにした。途中には、YYの住む高槻がある。その場所は、定かには知らないが、高槻の字と、響きは、私の心を少なからずかき乱す効果がある。
YYが私を見限って、他人に嫁いだことは、やむを得ないことだし、YYにとってそれが良い選択だったと思っている。
京都南ICから再び名神高速道路に入り、大津、上郷SAで休み、厚木ICで降りて、辻堂の兄の家に泊めて貰った。バイクの事故を話すと、馬鹿な奴だ、と一笑され、いい加減にしておけとも言われた。話は、深夜まで及び、痛飲した。

3日目は早朝辻堂近くで、TYa君と落ち合い、首都高速から東北自動車道に入った。蓮田SAについた頃は10時を過ぎていた、首都高は正に動く駐車場であった。上河内、安達太良、前沢SAと小休憩を取って、ひたすら東北自動車道を北上した。十和田ICを降りた頃には6時が近かった。
十和田湖に少しでも近い大湯温泉、中村旅館に宿を取った。飛び込みだが、東北なまりで出迎えてくれた女将は、素朴な感じだった。岡山と聞いて、なお驚いた様だった。

4日目は、早朝中村旅館を後にして、十和田湖に向かった。僅かな距離だった。高村光太郎最後の作品である乙女の像、厄を落とし、幸福を願ってうっそうと茂る森の中を森林浴をしながら参道を歩くと、森を抜けたところが十和田神社だった。そこから奥入瀬までも近く、道路すれすれに流れる美しい渓流は、心和ませてくれる。我々は、車を止め暫し、自らの手を渓流に浸し、夏でも涼しい渓流の心地よさと、覆い掛かる様な緑のトンネルを楽しんだ。
この先左に取ると、新田次郎の「八甲田山死の彷徨」で知られる八甲田山がある。我々は、手前を右に取った。十和田道を東に、十和田市に出て北上、野辺地町を通った。陸奥湾が現れた。それからは一本道国道279号線を北上左手には、何時までも陸奥湾が続く。むつ市からは少し細くなった道を一気に恐山に出た。
恐山は、枯れた、裸の山肌に、卒塔婆が林立し、カラスといたこが、この世離れした雰囲気を醸し出していた。1時間ほど周りを歩き、金箔のお経を書いたテレフォンカードを買い恐山を後にした。
来た道を引き返し、野辺地町で右に折れ、陸奥湾を右に見て、それが青森湾に変わる頃、青森市に着いた。県庁所在地にしては、寂しい町だと感じた。我々は、東北自動車道を碇ヶ関ICまで降りて、そこから、大館市を通り、内陸を、秋田市まで突っ走った。更に明日のツーリング時間を短くするための時間稼ぎをと、本庄市まで降りたところで、ホテルアイリスに投宿した。私の場合、ただ走るのが目的みたいなもので、全くそのほかには目もくれない強行軍である。

5日目の朝は、比較的ゆっくり出発した。ホテルアイリスを7時に出た。国道7号線をひたすら南に降りた。TYa君と、交代での運転だしRX7は安定した走りなので、疲れを感じない。時々7号線を外れて、海岸通りの道を走った。250km走った頃に新潟の看板が見えた。丁度昼過ぎだったので、道路沿いのドライブインで軽い昼食を採った。ついでに、長い旅で、汚れた車体の洗車を行った。

ここから、TYa君は、千葉に帰るということで、新潟駅に送った。リフレッシュしたRX7は再び北陸路を西南に走る。新潟からは、北陸自動車道が完成しており、距離の割には楽なコースだ。交通量は少なく、正にRX7の独壇場だった。上越市から、糸魚川を通り、子不知、親不知の正に曲芸的な、高架道路をひた走った。親不知、子不知は市振から落水迄の15kmの海岸をそう呼ぶらしい、JR親不知駅の西10kmの辺りまでを親不知ということだ。
北アルプスの北端が崖となって日本海に落ち込み、400~500mの断崖絶壁を見せている景勝地で、明治16年(1883)に国道が開通するまでは旧北陸街道最大の難所で、昔旅人はこの崖下の狭い砂浜を命からがら通過したという。現在は、親不知ICは海上インターチェンジとなっている。
それから暫く走り有磯海SAでしばし休憩と給油を行った。4時過ぎだが夏の日は長い。遠く魚津、滑川を見て、再び北陸道に入った。一気に片山津ICまで走り、そこで降りて、通い慣れた道をKHaの家に向かった。

KHaの家に着いたのは6時を少し回っていた。KHaはTYa君を知らない。友人同士は知らない関係だった。

6日目はKHa一家と粟津近郊のドライブを楽しんだ。ゆのくにの森で、工芸コーナーの実体験をし、大観音から、赤瀬温泉へと周り休養を取った。赤瀬温泉は、本来は弁天宗の教祖様が「ここほれ」と仰ったのを掘ってみると沸いて出た霊泉だという。それためか、赤瀬温泉の周囲には、他に遊びに行くところや、交通手段が車以外にない。素朴な温泉を満喫した。

KHaの家に戻ると夕方になっていた。お礼もそこそこに、私は大阪に向け出発した。加賀ICから入って、南条SA、吹田SAで給油、豊中の姉の家に着いたのは、夜の11時を回っていた。

7日目は昼頃まで、だらだらして、それからTNaの家に向かった。能勢の山奥だ。牧師さんとも挨拶をして、TNaの奥さん運転の車で、京都金閣寺や、宝ヶ池にドライブした。私にとっては、YYとの懐かしい場所ばかりで、思い出さねば良いところを、思い出してしまった。TNaはそのことを十分承知していた。
その日は、少し早めに帰りTNaの家に泊めて貰った。「それで、どやねんこの頃は」彼独特の話っぷりだ。「どうもこうも無いぜ、何かあったら、連休に一人でドライブなんかするかよ」
話、飲みゆく内にその日は終わった。

8日目の朝が来た。最後の日だ。私は今度はRX7にTNaと奥さんを乗せた。
茨高時代夜間登山で来たことのある妙見山へ行こうとの話になった。
『能勢妙見山の正式名称は「無漏山眞如寺境外(けいがい)仏堂能勢妙見山」と長い。
能勢妙見山には鳥居があり「妙見宮」とも呼ばれ、『日蓮宗霊場能勢妙見山』とあるように、日蓮宗のお寺だ。能勢妙見山は、能勢町地黄の眞如寺の飛び地境内となっている。昔は、神仏習合といい同じ場所で神様と仏様を祀っていたので、妙見大菩薩を仏教と同時に神道式に崇めよういうことで鳥居が残されている。明治になって、神仏分離(1868年)が行なわれ、能勢妙見山はその沿革から、寺院として再認識されることになったという。
能勢妙見山の入口の鳥居の右側に、能勢頼次公の銅像がある。能勢妙見山を開基した人で、戦国時代から江戸時代にかけて活躍し、一時期滅びた能勢家を再興させた能勢中興の人として知られている。清和源氏といわれるように、源氏は清和天皇から始まるが、清和天皇の曾孫に当たる多田満仲の長子が大江山の鬼退治で有名な頼光、そしてその子頼国の時長元年中(AD1028~1037)に能勢に移住し、以来能勢を氏としたと言われている。
多田満仲から数えて22代目能勢頼通の時代、織田信長が京へ上洛し勢力を広げようとして、頼通に対し織田に従うよう言うと、頼通は代々足利将軍家に仕えてきたことから、織田の申し出を断り、このため、織田の命を受けた隣接の山下城主である塩川伯耆守国満に攻められたと言う。こうしてついに、天正8年(1580)頼通は塩川勢に謀殺される。塩川勢はその勢いで、一気に能勢へ攻め寄せて、能勢頼通が謀殺されたことを知った能勢軍は急きょ頼通の弟である19歳の頼次を後継として戦かったが、居城の丸山城は落ち、能勢頼次は居城をここ妙見山(当時は為楽山という)に移した。
そして天正10年(1582)本能寺の変が起こり、能勢頼次は隣接する亀岡の明智光秀と以前から親しくしていた関係で、また信長によって兄が謀殺された経緯もあって、明智光秀に味方して兵500人を出したが、結果は明智は秀吉に敗れてしまう。秀吉軍はさらに能勢にも攻め込み、神社仏閣に至るまでことごとく焼き払い、このとき頼次は打って出ていさぎよく戦いの花と散ろうと決心するものの、老臣たちに諭されて、数名の家来を連れて備前の国岡山の城下へ落ち延びてゆく。
能勢頼次は名前を三宅助十郎と変えて逃げ、能勢氏の先祖の寄進によって建てられた妙勝寺という日蓮宗のお寺に落ち着く。この時、頼次の胸には、23代続いた能勢氏が自分の代に消えてしまうのか、長く住み慣れた能勢の山川も再び踏みしめることができないのか、という想いが去来したあろう。
時代は徳川家康の台頭の時となり、ある時、家康が京都の実相寺(現在の南区上鳥羽)という日蓮宗寺院で休憩した時のこと、実相寺の住職が能勢頼次の弟であったことで、頼次は家康に召し抱えられることになり、やがて慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで能勢頼次は徳川軍として大きい戦功を立てて、家康からかつての能勢氏の領地を与えられる。
能勢頼次が秀吉軍に攻められ落ち延びて19年、備前の妙勝寺で「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えて能勢氏再興を願い、それが実現したことで仏への感謝の念が大きくふくらみ、もっと法華経の信仰を深めたいという想いにかられ、日乾上人の説法を聞くことになる。日乾上人は、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の法主(住職)になった高徳の僧で、その法話を聞き感動した頼次は、即座に日乾上人に帰依した。そして広大な山屋敷を寄進し、ここに住んでさらに教えを説いて欲しいと願い出たことが眞如寺の始まりという。
日乾上人はこの願いに応えて、のちに能勢に身を寄せて教えを説き広めることに尽くすことになる。このとき、日乾上人は能勢氏の家鎮として古くから祀られていた「鎮宅霊符神」を法華経のご守護神「妙見大菩薩」とし、さらに武運長久を願って武具甲冑を身につけ剣を手にした妙見大菩薩のご尊像を日乾上人自ら彫刻して授与し、これを能勢の領地が一望できる為楽山の山頂に祀ったが、これが能勢妙見山の始まりとなった。時に慶長10年(1605)、今から約400年前のことである。
以後、日乾上人は能勢頼次の外護のもとに次々と能勢一帯の神社・寺院を日蓮宗に改宗していく。こうして能勢地方の日蓮宗=能勢法華が成立していった。
能勢頼直の代には、江戸の下町本所に下屋敷を賜り、ここに妙見大菩薩のご分体を祀りましたところ多くの信仰を集め、親子鷹でおなじみの勝小吉と勝海舟親子の熱烈な信仰を得ており、今も妙見山の東京別院として賑わっている。
なお、能勢妙見さんは日乾上人以来代々、眞如寺住職があわせ受持するところとなっているが、昭和16年宗教法人法の改正によって、眞如寺の所属となって、現在に至っている。
妙見大菩薩の妙という字は美しい、清らか、見は目で見るから転じて姿形という意味から、妙なる姿、美しい姿ということで、古くから歌舞音曲を志す人々に信仰されている。
また、花柳界・芸能界からの信仰も厚く、歌舞伎・浄瑠璃の脚本作者の近松門左衛門も熱心な妙見信仰を持っており、また開運殿の前にあります浄水堂は四代目中村歌右衛門が願主となって建てられたものである。建物の柱の下にあります銅板にその名前が刻まれている。
妙見山の山頂付近には大きなブナの木が幅広く根を張っているのが見られる。このブナの原生林は、大阪府自然環境保全地域として指定されています。日本のブナ林は温帯(年平均気温が6~13度C)の代表的な落葉樹で、日本の西南地方では一般に1000メートル以上の山に生育しているが、妙見山のブナ林は660.1メートルと比較的低い山に生育していることで珍しいとされている。妙見山頂から西南の斜面にかけて周り2メートル以上のものが約100本もあって、中には直径が1.3メートルを越える大阪府下最大級のものも見られます。昭和58年5月2日に大阪府の天然記念物に指定されている。
能勢妙見山の山門をくぐって右手、鐘楼堂の横に大きな栃の木がある。大阪府下ではこれだけの栃の巨木は珍しいといわれており、秋には「トチの実」を見ることができる。その他にも妙見山中には杉や檜の大木が多く、この深い緑の中にはいろいろな植物を観察することができる。また深い山であるため、野鳥の種類も多く、カワセミ、オオルリ、サシバ、ヤマドリなど82種類の野鳥を観察できる。
このように自然に恵まれた妙見山は、「大阪みどりの百選」指定地として第29番目に指定されてる。指定された理由として、「信仰の山として古い歴史を持ち、山頂や参拝堂からの眺望がすばらしい。山頂には府下では珍しいブナの自然林があり、小鳥や昆虫類が豊富である」ことがあげられている。』
とまあ案内を読むと、昔は知らない事実が、こんなにも有ったのだと感心した。

能勢妙見山の次は奥様お勧めのるり渓へ行った。園部町の南西部にある“るり渓”は、緑の中の渓谷で、国の名勝地にも指定されている自然公園だとのこと。“るり”とは紫色をおびた紺色の宝石のことだ。明治時代、この地に遊んだ郡長があまりの美しさに感動して、命名した名といわれている。
標高500メートル、およそ4キロメートルの散策コースには、るり渓12勝と呼ばれる大小さまざまな滝や岩が、四季それぞれに変化する両岸の木々や花とマッチして、天下の名勝を誇っている。

その中には、鳴瀑(めいばく)と呼ばれ、滝の裏が空洞になっており、音がすることからこう呼ばれている珍しい滝がある。豊富な水が滝となって見事な景色を見せている。滝の正面では休息所もあってここからの眺めはまた格別だ。雨乞いに地蔵様をくくり滝壺に沈める古事があると聞いた。

また、掃雲峰(そううんぼう)は雲にそびえる高い峰を意味し、天狗岩ともいわれている。現在は樹木が生い茂って形が判別できないが、山の頂上に天狗の鼻のように斜め上方に突き出ている大きな岩があり、天狗がこの岩に休んだとのこと。昭和初期まで旱魃の年にはこの岩の上で柴を焚いて雨乞いをしたという。
さらに、錦繍巌(きんしゅがん)では秋の紅葉の季節にはにしきの縫い取りをしたように美しい景観が楽しめるので又来たらいいと言う。
他にも、座禅石と呼ばれ、寛永年間(1641年頃)貴族出身の名僧一糸和尚(仏頂国師)が亀岡市畑野町の法常寺を開山。ここまで座禅にきたといわれるところがある。

京都にこの様な箇所があるとは露ほども思っていなかった。YYと是非来てみたかったところだ。私はふとそう思った。
12勝の内には、滝の水しぶきによって、美しい虹ができる泉や、龍の水飲み場があり、岡山の人形峠で何時も見て通るサンショウウオガ住んでいるといわれている。
双龍淵(そうりゅうえん)は雄と雌の龍が水中に泳いでいる深い淵を意味し、別名 「鉈淵」とも呼ばれ、白いうなぎがナタを吸い込んだという伝説がある。
欄柯石(らんかせき)は小判のような姿の石で、玉双盤(ぎょくそうばん)は岩の上を流れる水、がまるで盤上転がる玉のようで美しい。
水晶廉(すいしょうれん)は焚きのおちる様子がまるで水晶の簾がかかっているように美しく見える事から呼ばれている。、
會仙巌(かいせんがん)では、仙人が大勢集まって、滝の流れおちる水に杯を流して曲水の宴を楽しんだといわれている。
最後の、通天湖(つうてんこ)は天にも届かんばかりの高いところにある湖という意味で、るり渓最上流の湖である。るり湖ともいい、ダムから流れおちる高さ12.5メートルの水の大カーテンは見事だった。

自然を満喫した、私は、昼過ぎにTNaの家を辞しいつもの道を玉野に帰った。3260km360リットルを消費した、一大ドライブだった。
RX7が来てから、ほぼ1ヶ月がたった。点検を受け、OILを交換した。
土曜日は病院へ行く事ぐらいで、之といってすることもなく、だらだらと過ごした。TItさんから電話があった。

娘は、相変わらず何か欲しくなると泊まりに来る。今回も、CDカセットを買ってあげると、喜んで帰っていった。現金なやつだ。

昔の構造設計室の連中とパブリックゴルフに行き2ラウンドした。疲れ切って帰ると、バイクの修理屋から、修理完了の電話を貰った。
開発部では、棺桶を冷やしておくという商品化を狙った研究が考えられ、試作されていった。
夏場でもドライアイスを入れなくて済むようにと言うのがねらいだった。結局そんな発想しかできないので、商売に結びつくはずがない。

私は一応治ってきたVZ750を手放すことにした。メーターをのぞき込むと18496kmだった。売却価格は、事故のせいもあって、7万円であった。私は、心の中で、有り難うとさようならを言った。
早速Ima氏に連絡、今後のツーリング参加は不可となったことを告げた。
売却先の岡山のバイクショップから、帰りは、TItさんに送ってもらった。

会社では相変わらず、融雪剤の研究を形ばかり進めていた。その為、JR東海の、名古屋にもお邪魔した。
そんなある夜、TItさんから電話で、再婚をしないかと話が舞い込んだ。TItさんは、何時も私のことを気にしていてくれたらしい。その晩はそのままで終わった。

週末は、長姉の住む広島に出かけた。西条から、志和に掛かるところで、パトカーに捕まった。スピード違反で、15000円(減点3点)の罰則だ。
姉の家に泊まって翌日は、朝早く三段峡へ出かけた。西中国山地国定公園を代表する景勝地で、全長16kmにわたる大渓谷。深渕、滝、断崖の雄大な景観がとぎれることなく続き、なかでも猿飛・二段滝・三段滝・黒淵・三ツ滝は五大壮観といわれ、自然による造形の妙を遺憾なく発揮している。紅葉には少し早かったが、人間の小ささを感じる一時であった。姉の家を出てからは高速道路を一気に家路に急いだ。今回のドライブは、590km前回広島で、行けなかったところに行けたので、満足していた。

会社ではAI(人工知能)の勉強会があり、興味深く参加した。人間の持つ専門知識をコンピュータに教え込み、専門知識が縦横に仕えるロボットを作る、人工知能だ。この勉強会は、年を越えて、毎週月曜日に行われた。其れ以外は、さしたることもなく、淡々と日にちだけが過ぎていった。

牧野昇の、「先端技術と地域活性化」講演があり聴講した。その夕刻、TIt、TI氏等の送別会があったが、気後れと未練とが交錯し失礼してしまった。お二人には悪いことをしたと自責の念にかられた。

阪大会のゴルフコンペには参加せず、終日雨のその晩に娘が泊まりに来た。翌日曜日は、娘と映画を見て、買い物と夕食をした。

明けて火曜日、TIt氏は、K.K.とYKa君を伴って、やって来た。
「やはり一人でいるのは良くない」などと言われ、その日は0:45まで話し込んで、皆引き上げた。
娘の誕生日は、電話でお祝いを言うだけだった。早いもので、15歳になっていた。

翌日曜日は、朝から水島ジムで、岡山県実業団のバスケットボールがあり、参加した。結果は1勝1敗であったが、人数が少ないこともあり、私にも出番が回ってきた。しかし往年の力はなく、活躍することは出来なかった。

TItさんからは、息子さんの退学の話や、それによる奥さんの精神的ショックを受けているなどが電話であった。

技術本部の副本部長が、東京から来て、研究の成果のヒアリングや、社長の仕事に対するモチベーションについての講話、又造船出身者に対する個別面談などが行われた。

翌週も、倉敷ジムで、実業団のバスケットボールがあり、またも1勝1敗に終わった。
部課長会議、五拓会(部課長を地区別に集めた非公式活動)などが、来る日も来る日も行われ、それが仕事になっていた。そのほかは、講演会、「企業生き残り作戦」:唐津一を岡山カルチャーホテルに聴いた。

土曜日娘が泊まりに来た。翌日、娘を伴って、朝から、RX7で鳥取の砂丘に行き、娘を、砂丘に遊ばせた。
思えば大きくなったものだ。昔は、目に入れても痛くないと思うほど、愛くるしかったが、今は体も大きくなって、当時の面影は、殆ど残っていない。

融雪剤は、業者から、手に入れたものを、試験的に使う事になり、その実験計画に入った。その経過報告と開発部の中期経営計画報告を兼ねて、本社へ出張する様に命じられた。

その週末は、一人で、京都にRX7を走らせた。
朝7:45家を出て、あちらこちらを回りながら、鞍馬に着いたのは、4時半だった。
私は、何故か京都に来ると落ち着く。京都は、私の全てを理解してくれる様な気がする。鞍馬に車を置き、山に入って、鞍馬天狗が修行をしたと言われる、木の根が地上を這う、峠を越えて、向こう側の貴船神社に出た。
鞍馬神社ではこれから一人で生きていくために力を貸してほしいと祈った。そして再び同じ山道を帰り、鞍馬に置いておいた車に乗り、一直線で玉野に帰った。時計の針は午後11時を過ぎていた。

日曜日に、大山にドライブに出かけた。
加茂川町から旭町、落合町を抜けて、久世町、勝山町そして、湯どころ湯原温泉郷を抜け八束村を西に入り、蒜山大山有料道路を駆け上がった。この有料道路からは、雄大な大山(伯耆富士)が随所に顔を出す、景色の良い道路だが、長い道路は、結構勾配が結構きつく、走っている運転手は、慣れもあり気づかぬ内に車をオーバーヒートさせてしまい、路肩で、ボンネットを開け冷やしている姿が多く見られる。11月でもそうであるから、夏はもっと酷いことになるだろう。私は、その辺の事情を知悉していたので、温度計を見ながら、無理をしない様に走った。
大山神社、大神山神社などを回り、宝珠尾根の樹林に白樺の木を愛で、ここが中国地方の剣が峰1729mの近くにいるのだと感激していた。

融雪剤の試験は、次の週も行われた。大石部長が退院とのことで、出社再開の日に電話を貰った。
取り敢えず良かった。

かくして1988年は暮れた。

寂しければ酒を飲むなり。
寂しければ少し酔うなり。
寂しければ文字を書くなり。
寂しければ早く寝るなり。
(洋燈亭)


1989年は慌ただしく訪れた。やることが山積している。一人の時は、悲観して、ロープを持って山の中を徘徊し、首を吊るのによい木はないかと歩いたことを思い出す。結局どろどろになって、夜中、家にたどり着いたこともあった。過去に死ぬ機会が何回か有ったのに、何故死ななかったのか、死ねなかったのかを思い出した。結局弱かったからだ、心が弱いと、何も出来ない。自分自身が強くなることを念じた。

初詣は、黒住教、と吉備津神社に行った。吉備津神社の本殿は如何にも威厳があり、多くの参拝客でごった返していた。簡単にお祈りを済ませ、渡り廊下を通って、鳴滝釜の方へ足を運んだ。お湯を沸かした時になる音色で、卜占をしたと言われている。

4日には日生にドライブした。日生町は、兵庫県赤穂市と接した岡山県の東の玄関口で、雄大な山々を背に湾を描く本土と、風光明媚な瀬戸内海に浮かぶ 大小13の日生諸島からなる漁村である。瀬戸内海は、何処まで行っても美しくのどかである。

新年早々、息子と娘が来た。

その日に天皇が崩御されて、翌日、平成となった。人生再出発に節目を付ける様な出来事だった。

長姉の家で茶会をするというので、招かれて広島に出かけた。

相変わらず融雪剤の件は、はっきりしないまま進行して、その為のミーティングが、何度か東京で行われた。
1週間後は東京でJR東海の課長代理らと話した。
開発部の工程会議があり、それに参加することは苦痛だった。

家は、壁をなおし、風呂をなおし、傷んだところは全て修繕した。
東京での「研究早期事業化」のセミナーを2日に渡り受講した。安延に会い、飲んだ。
しばらくは何もない日が続いた。融雪剤の件で、新潟大学積雪地域災害センターを訪問することになった。
フィールド試験のために、大山に雪のある内にと、融雪剤を持ち、許可を取付け、大山小学校の校庭に、区切りをつけ、各種融雪剤の散布をし、効果の程度を観察した。3日間の行程だった。目立った差異はなく、そう簡単にいくものではないと言うことだけが分かった。考えてみれば、鉄を扱った身の上、化学には全く疎かった。化学を少しかじった、課長補佐がついたが、その男の手にもとても負えるものでもなかった。

技術本部の副事業部長が再びやってきたが、その後、融雪剤のことは段々と立ち消えになった。
娘は高校進学が決まり、五姉夫妻が、墓参りと称して、我が家を訪れた。

土日は、四国1周のドライブを敢行した。宇野から高松へは、宇高国道フェリーが有名且つ便利ではあるが、釣り客しか知らないルートを利用して、日通のフェリーを使った。
つり客である証明は要らず、ただそういうだけで運賃は半額になった。
悔しい思いで、事故を起こした大豊の病院脇を通った。ここで、VZ750をひっくり返したのだ。でもそれは済んだこと、大歩危に着き、再度、祖谷のかずら橋を見た。かずら橋からは、高知は近く、高知から、中村まではYNaの結婚披露宴で、通った道だ。土佐市、須崎市とを過ぎ結構長い旅程だ。
中村までは、かずら橋から4時間半掛かった。それから足摺岬までも30kmの行程。事故がなかったら来ていたであろう四万十川下流を左に見て、足摺岬に到着した。太平洋に突き出た四国最南端の岬・足摺岬は、黒潮が最初に日本列島に突き当たる場所で、80mを超す断崖が荒々しい岩肌を見せる。
岬には亜熱帯植物が生い茂り、土佐の南国ムードを満喫することができる。

私は、ジョン万次郎ハウスや植物園など見て、海岸で磯釣りをしている様子を眺めた。四季の釣りが楽しめという海岸は獲物を求める人で、一杯だった。
岬を巡る自然遊歩道を歩き足摺スカイラインを土佐清水市まで出て、達串に泊まった。足摺宇和海国立公園は、迫力ある断崖と雄大な自然景観が一杯で、海中公園地区に指定されている竜串の海中景観は美しかった。

通ったことのない足摺サニーロード(国道321号線)をゆっくり走って、宿毛に着いた。土佐清水を出て、6時間余り、宇和島を通過しての松山までの距離は結構あった。
松山城を見て、高松へと帰路についた。松山城は、道後温泉に向かう電車道から見上げる位置の松山市街中央の勝山山頂にある豪華な城郭である。近年再建された建物もあるが、天守閣は江戸末期のもので、木造の建物と石垣が調和する。そこからの市街の眺めも良かった。伊予西条からは、高速道路が出来ており、之に乗ると、殆ど走る車もなく、快適な走りであった。4時間かけて、高松に着いてからは、同じ日通フェリーで帰宅した。

融雪剤がうやむやに終わったのと期を同じくして、開発部は解散となり、部長以下は去っていった。
私は、機械研究部に吸収された。材料研究部、情報研究部それぞれの長は、生え抜きで、私は、入社以来よく一緒に遊んだ、同期入社の大学院卒の部長の下につくことになった。
そして日をおかず、所長から、極限作業ロボット(極ロボ)の面倒を見る様に言われた。
その時の極限作業ロボットの長は、私と同期だったが、部下との間が巧く行かず、替わって欲しいとのことだった。私は、その部下に最後に裏切られるとは知らず、引き受けざるを得なかった。

極限作業ロボットは工業技術院の大型プロジェクトで、既に完成段階に入っており、後2年で、実証実験を行う予定になっていた。ロボットには、防災と、原子力と海洋の3種類があり、研究所では海洋ロボットを担当していることを聞いた。海洋ロボットでは、移動システムと、石油掘削の櫓に吸い付き格点部を検査する固着システムと、全体を統括するトータルシステムの3チームに別れていた。固着システムの担当と、移動システムの担当の仲が極めて悪く、私はその調整に腐心した。
内容的には、自動制御と、油圧装置、コンピューターグラフィックなどで、とても私の分かるものではない。

TOo前所長、NMi前開発部長、Ha課長が去ることになり、串の友で送別会を行った。その日、事業副本部長と、新機械研究部長から正式に極ロボの引き継ぎを言い渡された。新所長からも、技術的なことより人間関係を巧くコントロールすることを求められた。
従って、機械研究部の在籍は僅かの期間だった。

私は、自動制御なるものを初めて、耳にし、且つあらゆる専門語の乱発に、一時カルチャーショックを受けた。それなりに理解して、自分では出来なくても、彼らの話に乗っていけるようにと、必死になった。

その間にも、人事考課の表が回ってきて、評価をしなければならない。判らない人間が、判った人間を評価するほど難しいことはない。また今年からは、課長職も、自己申告の書類を提出することになった。段々と面倒くさくなる。

燃料電池関係の講演会があり、私も聴講した。鉄屋で育った人間にとって、化学分野である燃料電池の講義は、全く分からないものであったが、燃料としては、火力、水力、原子力の他にも燃料電池という概念があることが判っただけでも刺激になった。全てカルチャーショックの連続であった。

その年の工業技術院の大型プロジェクト(極限作業ロボット)に対する会計検査が行われるというので、いままで慣れている前任者の課長の助けを借り、検査対象書類を、揃えた。それ専門にやってきた、事務方の人間が、手際よく書類の準備を始めた。
工技院の会計課からは、事務官が訪れ、1日中掛かってトータルシステム、移動システム、固着システムの各々について監査が行われた。
移動は、理論的な、プログラミングが主だが、固着の場合は、油圧装置等、物が関係するために、監査も念入りに行われた。
海洋ロボットの実用化に関する対応がそろそろ話題になってきた。

美空ひばりが死んだ日、私達は2パーティーを組んで、玉研として初のゴルフに出かけた。私は名実?共に玉研の人間になってしまった。
管理に関する勉強を再び始めた。人事考課、昇格対象者の決定。なかなか教科書通りにはいかないが、少しでも、理にかなった評価をするために、評価基準を客観的に眺めた。

機械研の発足会と新人歓迎会が又一別館で行われ、旧所属がそうだったこともあって、私にも声が掛かった。上司が寄付して、行われるこの種の会合は、玉研独特の風習だった。

物1つ作るにも工場がないので、全て外注となる。通信関連の多い中、油圧装置についてもメーカーの人間に対して面通しを行った。ロボットの手足となるアームは、巨大な油圧マニュピレーターだった。
実験室で、実験を行うときは、危険がないように人払いをして、陸上での作動確認を行う。
この時制御を誤って、5mはある、1本の足が急に大きく振り上がり、天井を突き破るという事故があった。然し、特設の部屋だったので、簡易仕切を壊しただけで、大事には至らなかった。

社長が、来所して、極ロボ装置を見るというので、辺りを小綺麗に掃除した。
前任の課長からは、本社の元締めをしている担当部長は、逆らう人間には厳しく、過去自分を含めて3人更迭されたとの話も伝わってきた。
その後も、副社長、技師長、副事業本部長などが、引きも切らず、やってきた。これら偉い人は最後に必ず、極ロボを見学していき、その応対に私は、大わらわだった。そのころ、アウトラインの説明は、同じ事のオウム返しのように、私はすることが出来た。

RX7も1年目を迎え、点検整備に出しオイル交換などを行った。終末は、買い物と、打ちっ放しの練習で、同じ事の繰り返しであった。

玉研のボーリング大会が行われた。パチンコや、ゴルフに比べて、ボールが大きな分少しはましだったが、所詮好きなスポーツではなかった。
ゴルフのバッグを買い、土日で、打ちっ放しをいやと言うほどやったが、腕は上がらない。

渋川海岸は海開きが行われた。

私のもとに来客があると事務の女性が言ってきた。応接コーナーに出てみると、何とそこには、私が中学から大学を卒業する間住んでいた、千里山の隣人だった。
大阪で、機械部品を作る会社を経営しているのはいまも変わらないらしい。親父さんの方は、既に会長になり、私と同級生が社長の名刺を差し出した。そこには、岡山営業所長なる人物も同伴していた。
「懐かしいですね、その後お変わり有りませんか」と当たり障りのない挨拶を交わした。
実は、私には、両親の死や、離婚、再婚と激動の時を過ごし、何遍も死の淵に立っていたが、そんなことを言うわけにもいかず。適当に受け答えした。
彼らは、研究所が必要とする、試作品などの注文を受け、製作納入し、量産化につながれば、潤うという寸法だった。

私の仕事は、機械と、情報の両部門にまたがっていたために、その両方のミーティングに出席をした。
ロボットは推力減衰の問題がクローズアップされ、同様の問題を受け持っていた川崎重工のスタッフと数度のすり合わせを行った。

久しぶりに、娘から会社に電話があり、元気でやっていると言って電話を切った。
娘の明るい声を聞くのはとても心が和む。

近所に田井マウンテンゴルフがあり、細い山道を登っていくと、山のてっぺんから打ち下ろす打ちっ放しのスタンドがあり、又、その尾根を利用した、短い殆どショートアイアンだけを対象にした、ミニコースがあった。早朝そこへいくと、朝霧が掛かって気持ちがいい。
私は、時々そこへ通った。

今年度昇格者の小論文を研究所長に提出、それを情報研究部長が、チェックし、それぞれの手元に返却され、一部手直しを指示されていた。

上級職に課せられた、給与5%カットは、ようやく解除された。上級職(課長職)以上になると、否応なく会社の言うままに給料カットが行われる。今回は、5%で少なかったが、前には10%で長期間続いたことがあった。上級職は、悲哀の中間管理職である。組合員でもなく、会社側ではペイペイである。

家では、姉の土地の雑草問題で、近所からの刈り取りの要求が、激しくなった。私は、姉の了解を取り、シルバー人材センターへ、草刈りの依頼をした。


造船時代その11に続きます。





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